東京地方裁判所 昭和33年(ワ)10548号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔事実と判断〕本件家屋(建坪三三坪二合五勺)は昭和一一年九月から訴外白井千鶴子が被告に賃貸していたが、被告が昭和二六年九月一日以降の賃料の支払を怠つたので、白井は昭和二七年一月三一日到達の書面で、同日までの延滞賃料合計八、七五〇円を同年二月一日までに支払うよう催告した後、同年六月八日到達の書面で右不払を理由とする賃貸借契約解除の意思表示をした。原告は、昭和二七年一一月二一日白井から本件家屋を貸金の代物弁済として取得し、昭和三三年五月三〇日その旨の登記を経たので、被告に対し所有権に基いて本件家屋の明渡を求めるとともに、白井から譲り受けた被告に対する延滞賃料債権(一カ月一、七五〇円の約定賃料額)および賃貸借解除後の公定賃料額による損害金の支払を求めた。被告は、白井から延滞賃料の支払催告を受けた当時、本件家屋修理のための必要費として、畳替費用一六、二四〇円、外塀等の修理費用一〇、一七五円を支出していたから、その償還請求権のうち対当額で相殺する旨の意思表示をした、従つて白井のした契約解除の意思表示は効力を生じなかつたものであると抗弁した。これに対し原告は、被告のした修理工事は白井の反対を押しきつて一方的にしたものであり、もともと本件家屋は一カ月一、七五〇円のわずかな統制賃料で賃貸せざるをえないのであるから、貸主としては必要やむをえざる破損の修理に応ずる義務しかないのに、被告のした修理はこの程度に至らないのに単に体裁が悪いといつてしたすぎないことであるから、必要費には該らず相殺適状にはなかつた、また信義則上も白井がその費用を負担すべきではないと争つた。
判決は、以上の点について次のように判断して、畳の表替等の費用は必要費に該当するが、外塀等の設置費用は必要費にも有益費にも該らないと判示した。曰く、
「……を総合すれば、被告と白井との間には畳の表替の費用は両者が平等に負担する旨の特約が昭和一一年九月一七日頃成立していた……そして右特約にいう畳の表替には畳表を取り換えること及び畳表を裏返すことの両者が含まれるけれども『うすべり』をあつらえる費用のごときは含まれないものと解するのが相当である。また前二者は畳が和風住居にとつて必要不可欠なものであることに鑑みればその費用は民法第六〇八条一項にいう必要費に該当するものであるが、後者の費用は当然には必要費ないし有益費に属しないものと解するのが相当である。けだし『うすべり』は当然には家屋の一部となるものではなく、独立の動産として被告の所有に属するものであるからである。」
「さらに原告は統制賃料額との権衡及び貸主白井の意向を無視して被告が補修したこと等の理由で信義則上も白井には費用償還義務がないと主張する。なるほど公共の福祉を優先させる政策の一環として法令により家屋の賃料等がいわば貸主の犠牲において一般物価の騰貴率を遙に下廻る水準に抑えられている実情の下にあつては、そのような家屋を利用する借主の方でもこれに相応する程度の不便ないし負担を甘受せざるを得ない結果となる場合があることも肯定できるから、原告の主張するところは一般論としてみるかぎり自由な等価交換を前提とする有償双務契約の本質に鑑み妥当なところがあるものと認められる。しかしそれとてつまるところは、給付の均衡という衡平の法理から具体的事案に則して判断すべきことがらであるから、たとえ賃料の統制があるからといつて賃貸人が一切の補修義務を免れ、必要費等の償還義務を悉く免れるとは一概に断定できないものであり、本件においても賃貸借当事者双方の具体的事情を比較衡量すべきところ、少くとも畳は和風の住居にとつて必要不可欠のものであり、当時の賃貸人の夫白井孝三も一応は表替の必要性を容認していたかの如く推認される節があることに鑑みれば、被告の前示出費のうち畳の表替等の費用は原告の主張を考慮してもなおいわゆる必要費に該当するものと認定するのが相当である。」
「次に前示(一)(ロ)の大和塀等の設置費用が必要費ないし有益費に該当するかどうかを考えるに、本件塀は設置後も敷地もしくは本件家屋とは別個独立の存在たるを失わないから、その所有権は民法第二四二条但書によつて設置者である被告に帰属するものである。(けだし本件塀は、借地法第一〇条にいう権原に因り「土地ニ附属セシメタル物」に相当し、当然には土地所有者の所有に帰するものではないし、家屋に附合するものでもないから、その所有権は賃借人である設置者に帰属すべきものである。)このように本件塀が被告の所有に帰するものであるときは、たとえそれが本件家屋の利用価値を増大させるものであるとしても、被告はその設置に要した費用の償還を請求できる根拠はないものと解するのが相当である。すなわち民法第六〇八条が必要費、有益費の償還義務を定めたところのものは、賃借人が賃借物のため投下した資本のうち、賃借物の所有権に包摂されたもの(労力の提供を含む)を必要費、有益費の区分に従い民法第二四八条の特例を設けて償還せしめようとするものであつて、同法第二四二条但書の例外となる所有権取得原因を定めたものでもなければ、造作買取請求権類似の権利を賃借人に附与したものでもないから、賃借人の設置した物が依然としてその賃借人の所有に属するものであるかぎり、賃貸人がその設置費用を負担すべき理由はないものといわなければならない。」(石田哲一 滝田薫 山本和敏)